1.

『ロスアラモスからヒロシマへ』(フィリス・K・フィッシャー著、時事通信社刊)を読んだ。
以下はアマゾンの「レビュー」から。


広島と長崎に落とされた原爆が、
米ニューメキシコ州ロスアラモスの砂漠の秘密軍事基地で開発・製造されたことは
あまり知られていない。
ここでは6,000人もの科学者や軍人、労働者とその家族が働き、生活していたのだ。
…妻は夫の仕事について全く知らされず、悩み苦しむ。
その不安と焦燥、笑いと涙の日々を、両親にあてた手紙を基に再現した回想録。
戦後広島を訪れて執筆を決意した経緯も綴る。
皮肉とユーモアを交えながら、隔離生活の実像を伝える。



ユダヤ系アメリカ人の著者・フィリスが物理学者であるレオンと結婚したのは
真珠湾奇襲の2週間後の1941年12月21日。
ニューメキシコに新居を構え、赤ん坊も授かり、フィリスは遣り甲斐のある仕事も与えられていた。
が、1944年10月、レオンは突然、カリフォルニア大学バークレー校の教授から手紙を受け取る。
「技術者集団」の仲間として、あるプロジェクトで働かないかという誘いだった。
差出人と電話で話したレオンは、フィリスに何の相談もせず、その申し出を受けてしまった。
行き先も知らされず、心配する両親にすら詳細は何も報告できず、
3人はバタバタと指示された場所(ロスアラモス)に引っ越し、
「プロジェクト」の成功(つまりヒロシマ・ナガサキへの原爆投下」)までそこに隔離されることになる。

前書きで著者は自分も「ヒバクシャ」なのだと言う。
繰り返し繰り返し思いみても、その深い意味の何十分の一わかるだろうか。
しかし次の言葉にそのヒントがあると思う。


ロスアラモスは、はっきりとは目に見えない形で私の世界をも変えていきました。
あの日(1945年8月6日)にとても強く感じた救いようのない感覚を、
その後決して忘れなかったからです。
・・略・・実際、あの1979年11月の寒い日に原爆慰霊碑の前で
あなた(被爆者の老女)の数メートル後ろに立った時までは、
何も実感できていなかったのです。たぶんその正体は、あなたに出会って
私自身を「生き残り(ヒバクシャ)」ときめつけたくなったことの中にあるのでしょう。
私たち双方が、いずれは安全な日々が戻るだろうと思い、
子供たちの未来には希望があるのだという幻想ぐらいは抱くことができた
「核以前の時代」からの「生き残り(サヴァイヴァー)」である、と感じたことの中に、
不吉な影の本質があるのでしょう。






2.

1945年8月6日、広島と同様、ロスアラモスでも普段となんら変わらない1日が始まった。
しかし「いつものようには終わらなかった」。

その日、ラジオは、それまで誰も知らなかったロスアラモスのことを詳細に伝え、
「ヒロシマで10万人以上のジャップがこの一発で死亡した、半径一マイル圏内は蒸発した」
と歓喜して報告していた。
このときロスアラモスは公認され、もはや秘密ではなくなった。


著者の言葉から。


この日、1945年8月6日という日こそ、興奮し自失したこの町の人々に、
自分たちが創り出したウラニウム爆弾が、原子力時代の幕を開き、
善悪の狭間に強大な力を持ち、更にこの爆弾は、自然が人類に与えていなかった
自らの運命を左右することのできる手段を、人類に与えてしまったということを、
否応なしにわからせることになったのです。


オッペンハイマー博士はこう言ったという。

「戦争が廃絶されて、
 原子力が平和的開発のみに利用されるのでなければ、
 世界の将来に対して深く憂慮しなければならない。」

(後になって彼は「物理学者は罪を知った」と語ったそうだ)


ヒロシマ・ナガサキの後にロスアラモスの住民が精神的に酷く不安定な興奮状態に陥り
病院の頭痛薬、睡眠薬、吐き気止めが底をつくほどだったということを読む限りでは、
口に出さなくとも、同じように考え、恐れを抱いた科学者は多かったのかもしれない。
(著者が正直に語っているところによれば
 ヒロシマ、ナガサキの被爆者を慮る人は皆無だったようだが
 ・・・それが戦争というものなのだろう)
しかし結果的に原爆が戦争を終結させたことで、
ロスアラモスは祝賀ムード一色に包まれた。


原爆をつくっているとき、科学者たちは、自分たちがしていることが何をもたらすのか、
その意味を考えてはみなかったのだろうか。

科学者たちは、完全に‘外’と隔絶された場所で
自分たちのプロジェクトの成功こそが戦争を終結させ平和な世界をもたらすと信じ、
政治的なことも戦争の状況も一切頭に入れず、
ただひたすら核兵器の開発に没頭していたのだと著者は言う。
彼らは完全に「組み込まれて」いた。
自分たちが何をしてしまったのか気づいたとき、
核エネルギーの手綱はもはや彼らの手にはなかった。
そして核の時代の幕開けに戦慄していたとしても、
一握りの科学者以外はその後も政治的なことに一切口を出そうとはしなかった。

彼らは「ロスアラモス」を心の中に封印してしまったのだろうか。


1983年、ロスアラモス国立研究所で創立40周年記念式典が行われた。
その際、I・I・ラビ博士は言ったという。

「第二次世界大戦中、ロスアラモスでわれわれは良かれと思ってこの仕事をやりました。
 けれどもわれわれは責任を放棄してしまったのです。
 われわれには魔王を元の瓶に戻すことはできません。
 核エネルギーはもやはわれわれの手中にはありません。
 一体どうやってこの力を取り戻すことができるのか」


取り戻すことはできない、のだろう。世界中がそれを望まない限り。

ロスアラモスにいた科学者でなくても、
人類が核兵器をつくろうという意志をもちそれが成功すれば、
つくり出したものを実験し、クニの力を世界中に見せつけようとするだろうし、
遅かれ早かれ地球上のどこかが「ヒロシマ」「ナガサキ」となったのではないか。

人類とはそれほど愚かなのだ。


1946年9月、フィッシャー一家は様々な意味で思い出深いロスアラモスに別れを告げ、
ニューヨークに向かった。
レオンがニューヨーク大学に物理学科の助教授として招聘されたからである。


この本が出版されたのは1986年だが、9・11の後では、
次の文章が特別な意味をもって迫ってくる。


現代のアメリカ人は、自らの国土での戦争を体験していません。
戦争による大量殺人は、海の向こうの出来事でした。
彼らの町が破壊され、彼らの国土が踏み荒らされたのでした。
私たちの被害といえば、せいぜい、少々の不便と物の不足を我慢する程度のことでした。
男たちは戻って来ました。ある者は出征したときのままに元気で、
ある者は身体や心に傷を負い、またある者は真新しい松の棺に入って。
それは家族や友人にとって、胸が張り裂けるような悲しみだったことでしょう。
けれど、戦争に限らず、いつでも死とか負傷とかは
そんな風に痛ましいものなのではないでしょうか。
・・略・・もはや戦争は、その軍事目的を達成しようとすれば、
必然的に戦争の本来の目的まで無にしてしまうほどの副作用をもたらすことが、
ヒロシマとナガサキにおいて実証され、世界中に冷静な警告を発しているのだと思います。
1946年夏、次に世界大戦が起こるとすれば、真っ先に攻撃目標になるであろう
ニューヨークという街に移る準備が完了したころ、
私はこのようなことを思い巡らしていたのです。



***



過去に学ぼうとせず、この核と化学兵器の時代にあっても自国のことのみを考え
戦争に突き進んでいるように見える現在、この先に希望はあるのだろうか。

わたしは思うのだ。
希望があるとすれば、それは、フィリスがお母さんに何度も励まされて
ロスアラモス時代に自分が書いた手紙を読み、
封印していた過去と向き合ったことの中にあるのではないか。
希望は目をつぶることからは生まれない。
過去と現実をありのまま見つめようとすることから生まれるのではないか。
そして希望は政治家にあるのではなく、
わたしたちひとりひとりにかかっているのではないか。

「国益」ということをよく耳にするが、平和や安全ということに関して言うなら、
「国益」のみを考えていたら、永遠に達することはできないのではないだろうか。













(2005年6月)































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