1.

法政大学第一中・高等学校で行われた
「渡辺えり子‘‘平和講演会’’―中島飛行機の旋盤工だった父親から教えられたこと―」に参加した。
「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」の戦後60年企画。


「中島飛行機」は大正6年、群馬県に創立され、
昭和13年、北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が、
昭和16年、隣接地に多摩製作所が増設された。
陸海軍に分かれて生産を行っていたが時局の要請により合併されて武蔵製作所となったという。
当時、そこで働いていた人は5万人。広大な敷地には、病院等の施設も併設されていた。

日本第一の航空発動機工場だった中島飛行機を、米軍が見逃すはずはない。
昭和19年11月から終戦まで十数回の爆撃が行われ、爆弾500発が命中、
200人以上の死者と500人以上の負傷者を出し、工場は廃墟と化したという。
(今はその一部が武蔵野中央公園となっているが、当時の面影は全くない)

渡辺えり子さんの父・正治さんはその中島飛行機で昭和16年から終戦まで勤務しておられた。
(14で山形から上京して寮に入り、
 中島飛行機の青年学校と技能者養成所で学んだ後のことだった)

戦争が終わって10年後に生まれたえり子さんは
昔日本は戦争をしていたが、平和憲法のおかげでもう日本は戦争することはない、
と教えられて育った。戦争と自分を関連づけることはなかった。

ところが30歳で帰省した時、正治さんから初めて中島飛行機でのことを聞く。
えり子さんは大きな衝撃を受ける。

中島飛行機で多くの犠牲者が出た中、正治さんは奇跡的に助かり、
故郷に帰り、結婚し、自分が生まれた、と知ったからだ。

犠牲者には、10代の少年・少女たちも数多く含まれていた。
200人がもしそこで死ななかったら、その何倍もの子どもが生まれたことだろう。
戦争はまだ生まれていない無数のいのちを、また
それに連なるはずの無数のいのちをも奪ってしまったのだ。


それまで遠い存在だった戦争がえり子さんの「人生に直結」した瞬間だった。





2.

正治さんは「中島飛行機」の寄宿舎で佐野保隆さんという人と出会い、驚嘆する。
深い教養をもち人格的にも優れていただけでなく、実行力も兼ね備えた人物だったからだ。

ある日佐野さんは正治さんに打ち明ける。
職場の上司から「工研生(工作技術法研究生)」に推薦されたのだが、
自分はこの厳しい社会現実の中で立身出世するようなことはしたくない、
と。

それに対して正治さんは
こういう厳しい社会だからこそ佐野さんのような人が社会の要職に就くべきではないか、
と言った。

それからしばらくして佐野さんは「工研生」となり、その寄宿舎を去っていった。
昭和19年4月のことだった。

数ヵ月経った11月1日、中島飛行機の上空を初めてB29が飛んだ。偵察飛行だった。
24日、初めての空爆、12月3日には2回目の激しい空襲があった。
その日、佐野さんは他の「工研生」とともに壕で生き埋めになり、帰らぬ人となった。
このとき正治さんは大きなショックを受ける。

「これが戦争なのだ」

自分が佐野さんに「工研生」になることを勧めなかったら
佐野さんが死ぬことはなかったのではないか?

激しい悔いが正治さんに付きまとうことになる。


その後、工場付近に大規模な空襲があるらしいという情報が入った。
「3人の防空要員を残して退避するように」という命令が下った。

3人を、つまり殺される3人を決める話し合いが始まった。
なかなか決着がつかない。
居たたまれなくなった正治さんが名乗りをあげ、ふたりの友人がそれに続いた。
3人以外はさっと蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

正治さんらは一旦寄宿舎に戻り、一張羅に着替えた。
死んだとき恥ずかしくないように、との気持ちからだった。

工場に帰り、屋上に上って‘そのとき’を待つ。
いつ死ぬかと考えると、「臓物が口から飛び出そうだった」という。

ひとりの友人が「死ぬのは一度だけ」と何度もつぶやいている。

正治さんを助けてくれたのは、当時心酔していた高村光太郎の詩だった。
(その一連の詩は、「戦意を鼓舞した」として戦後、発売禁止になる)
詩を暗誦しているうちに心は和らいだ。

その日空爆はなく、正次さんたちは助かった。
3人は「万歳!」と叫んだ。

(それから少しして正治さんは、やはり高村光太郎を尊敬していた友に
 「先生が無事かどうか心配だから見てきてくれ」と頼まれ、
 高村のアトリエを訪ね、言葉を交わす。東京大空襲の3日前のことだった。)



えり子さんは2、3歳の頃から、父の暗誦する高村光太郎の詩を聞いて育った。
家のあちこちに高村の写真が飾られていたから、
「この人がおじいちゃんなのかなぁ」と思いながら。





3.

先に書いたように、えり子さんが正治さんから戦時中の話を聞いたのは
30歳を越えてから。
正治さんはそれまで40年間過去を封印してきた。

この戦争は聖戦なのだ、アジアの人々の平和のための戦争なのだ、
と教え込まれそれを素直に信じていた山形の少年には
学校卒業後の選択肢はあまりなかった。
満州に行くか、兵隊に志願するか、中島飛行機で働くか・・・。

正治さんは中島飛行機を選んだ。
飛行機のエンジンの歯車をつくる「施盤工」は、
中島飛行機の中でもエリートだったから、仕事に誇りももっていただろう。
しかし、戦争が終わったら、誇りはむしろ恥ずべきこととなった。

そのように価値観が180度変わるのを目にした正治さんは、教師を志す。
「教育とはいったい何なのか探りたかった」のだ。

教頭や校長にはならず、一教師として定年まで子どもたちと向き合った正治さんを
えり子さんは心から尊敬しているという。


講演会には正治さんも来ておられた。
えり子さんに呼ばれて、恥ずかしそうに壇上に上がられた。
当時のことをえり子さんが尋ね、正治さんが思い出しながら訥々と話す。
(記憶がぼやけているところもあったのだろうが、
 突っ込んだ質問も多かったから、答えにくくもあったのだろう)
言葉の足りないところをえり子さんが饒舌に補う。
それを正治さんがにこにこと聴いている。
いい親子だなぁと思った。


インタビューの最後の頃、えり子さんはこんな質問をした。

「中島飛行機は父ちゃんにとってどんな所でしたか」

一瞬ためらってから正治さんは答える。

「青春でした」





8年前、えり子さんは正治さんの戦時中の体験を基に
「光る時間(とき)」という戯曲を書き、演劇集団・円が上演した。

「私たちの世代は直接戦争を知らない。
 でも、親の世代から聞いた話を次の世代に伝える
 架け橋にならなきゃいけないと思うんです。
 日本全体が変な方向に走ろうとしているいま、強くそう思います。」

――朝日新聞に掲載されたえり子さんの言葉より――



上に立つ人々を信じてついていってはいけないのだ、
彼らは弱者のことなど考えていない。
第一、戦争となったとき、戦地に行くのは彼らではない。
そして戦争でいちばんの犠牲者となるのは(苦しむのも)
子どもであり、老人であり、女なのだ。

ただ真面目に一生懸命生きていくだけでは
巧妙に忍び寄ってくる戦争を食い止めることはできない、考えなくては。
(えり子さんも言っていたように真面目な人ほど、いざ戦争となったら
 誰よりも一生懸命戦争に協力・加担することになるのだろう)
周りと一緒に流れていっては、過去を繰り返すことになる。

戦争体験者がまだ生存している間に、
わたしたちは真剣に過去から学ばなくてはならないのではないだろうか、
声を上げなくてはならないのではないだろうか、
自分の言葉を語らなくてはならないのではないだろうか。
それがどんなに無駄に思えたとしても、どんなに空しく響いたとしても。

わたしたちは生きている限り自分を諦める訳にはいかないのだ。










* 渡辺えりさん主催「オフィス3○○」のHPはこちらです。





(2005年8月)



















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