1.

灰谷健次郎さんの講演会に出席した。

行って初めて、講演会が「めるくまーる」という福祉団体の主催であることを知った。
そのせいか、会場の案内をしてくれる人たちはみな、にこにこと感じが良い。

講演会に先立って、「めるくまーる」に関わる人たちの挨拶や説明があったのだが
(「めるくまーる」は「東久留米市精神障害者地域生活支援センター」の別称)
説明は、メンバーやスタッフが数名壇上に出てきて車座になり討論会をする
という形式でなされ、とてもわかりやく、興味深かった。

「統合失調症」の人たちが、自分の病気のことを堂々と話すのにはびっくりした。
自分に聞こえた幻聴のことや強制入院させられたときのことを事細かに話してくれる人もいた。
長い間不安神経症に苦しんできた女性は、神経内科とカウンセリングに行き詰まり、
どうしようもなくなったとき「めるくまーる」に出会ったと言っていた。
医療が提供できなかった「居場所」をめるくまーるは自分に与えてくれたのだ、と。

壇上にいながらまるで「めるくまーる」のお茶会を再現しているように語る人たちは
病気とはとても思えないほどだったが、実は、前日も
「自分には無理」「死にたい」「終わったら即入院だわ」などと訴えていたのだという。

ある人の言葉が印象的だった。

「(「めるくまーる」に通う人たちを見ていて)人はほんとうに変われるんだ、と思いました」





2.

「人は変わることができる」という言葉を受けて灰谷さんは
20年前に出会った女の子の話から話し出された。

当時その子は17歳だったが、家庭的な問題から心を病み、
自殺願望に捕えられ、何度も自殺未遂を繰り返し、精神病院に収容された。
そこで灰谷さんに手紙を書く。灰谷さんが返事を出し、交流が始まる。

しばらくして淡路島に訪ねてきた少女を見て、灰谷さんは言葉を失ったという。
少女は拒食症のためガリガリに痩せ、皮膚につやはなく、自殺未遂の痕が
腕にも首にもついている。しゃべり始めても灰谷さんと目を合わせようとしない。

『兎の眼』(灰谷さんの小説)に出てくる小谷先生のような先生になるのが夢だという少女に
灰谷さんは言ったという。

「とにかく、3月まで生きてみなさい
 そうしたら神戸の保育園に話をつけて、仕事ができるようにしてあげるから」

少女の瞳に初めて光が宿った。

「ほんとうですか?
 そしたらこの紙にそう書いてください」

やがて少女は灰谷さんの経営する「太陽の子保育園」に通うようになる。
子どもの中で働いているうちに少女は静かに癒されてゆく。
彼女が子どもに寄り添っていたというよりむしろ彼女の方が子どもに寄り添われていたのだ。

3年ほどそうやって働いた後、彼女は新たな志をもち、別の仕事を見つける。
そしてある男性と出会い結婚し3人の子のお母さんになる。

20年後、毎日新聞に掲載された手記の中で彼女は書いている。

「人は変わることができるのです」

きっかけは、少女の心に寄り添った灰谷さん、そして子どもたちとの出会いだった。


「何もできない」などと言い訳してはいけないのだろう。
わたしたちは今日そばにいる誰かの、今日出会う誰かの、
きっかけになれるかもしれないのだから。





3.


次に灰谷さんは、駆け出しの教師だった頃、知り合いの‘知恵遅れ’の女の子を
小学校一年生の自分のクラスに預かったときのことを話された。
『兎の眼』の土台のひとつにもなったエピソードだから、懐かしく思いながら聴いていた。

このお話ぜひ紹介したいなぁと思ってネットを検索していたら、
故・上野遼さん(児童文学者)の「『兎の眼』のこと」という文章を見つけた。

長くなるが、引用する。

彼女には「たったひとつだけわかることばがある。
それがオシッコジャアーだ。しかし、その後がたいへんだった。
そのことばをきくやいなや小谷先生は超スピードでみな子を便所につれていかなくてはならない。
それでも成功するときはまれである。たいていは、とちゅうでもらしてしまう。
オシッコジャアーというよりはやく、その場でもらしているときもある」。
それだけではない。授業中、みな子はじっとしていない。クラスの子どものノートを破る。
他人の給食に手をつっこむ。歩きまわる。池に腰までつかって金魚をおいまわす。
数えあげればきりがないくらい・・・


みなこちゃんはクラスの子どもたちにとって迷惑な存在に他ならなかった。
けれどもみなこちゃんと関わることで子どもたちは変わっていく。
「みなこちゃん当番」も子どもたちからの提案だった。



「うん、そうじとうばんはそうじをするでしょ。にちばんはまどをあけたり、しゅっせきをとったりするでしょ。
 みなこちゃんとうばんは、みなこちゃんのせわをするとうばんです。
 みなこちゃんとあそんだり、べんきょうをしたり、とうばんになったこは、
 みなこちゃんのそばをはなれたらいかんの」
「どうしてぼくがそんなことをおもいついたか、おしえてあげよか。
 ぼく、みなこちゃんがノートやぶったけどおこらんかってん。ほんをやぶってもおこらんかってん。
 ふでばこやけしゴムとられたけどおこらんと、でんしゃごっこしてあそんだってん。
 おこらんかったら、みなこちゃんがすきになったで。みなこちゃんがすきになったら、
 みなこちゃんにめいわくかけられてもかわいいだけ」
これは淳一という子どもの発言だが、すでにこの発想の中に、
淳一の、じぶん自身の枠をこえる思考や姿勢がのぞいている。
じぶんが伊藤みな子をどのように思うか……ではなくて、伊藤みな子とどう関わるか。
その最上の在り方を手さぐりし、つかみあげた気持がよく示されている。
この「じぶん以外のもの」への配慮が子どもを変える。じぶんの中に、
他人の立場、じぶん以外のものの考え方や感じ方を受けいれる土壌をつくる。
それはやがて、他人というものがじぶんとおなじ命の重みを持ったものである自覚を芽ばえさせる。
淳一というこの子どもだけの問題ではない。淳一の提案で「みなこ当番」を決議した小谷学級の子どもすべてが、
それぞれのやり方で新しい人間関係の組み方を考えるようになる。
伊藤みな子は、この意味で、クラスの子どもたちにとって人生の教師とおなじである。
体や行動を通して人間への思いやりを喚起する点で、ソクラテスの役目を果している。






4.

『だれもしらない』という灰谷さんの作品が国語の教科書に載ったことがあったという。
主人公は、障碍のために、200メートルを40分かけなければ歩けないまりこ。

障碍のある子が主人公のお話が教材として選ばれるのは初めてと
当時は朝日新聞でも大きく取り上げられ、話題になった。
しかし『だれもしらない』は半年でおろされた。
教科書の内容が入れ替わるのは大抵4年毎だから異例のことだった。

理由は、先生たちからのクレームだったという。

障碍のある子をクラスに受け入れている先生方はほとんどいないから、
(そしてたぶんそういう問題について考えたことのある先生がほとんどいないから)
この教材をどう扱っていいかわからなかったのだ。

『だれもしらない』を読んだ子どもたちの感想文を宝物にして、灰谷さんはこのことを切り抜けたという。
そう言いながら灰谷さんはある女の子の文章を紹介してくれた。

普通の人の5倍の時間をかけなければ同じ距離を歩けないまりちゃんの苦労を体験しようと
その女の子は雨の中、家から学校までの距離を5往復してみる、
そしてそれが思っていたよりずっとずっと大変なのを知る。

女の子は教科書を読むことで、自分がもしまりちゃんだったら、と考え、
まりちゃんを追体験し、少しの間別のいのちを生きたのだ。
それは女の子の生涯の糧になる体験だったのだろう。

『だれもしらない』を読んだ子どもの感想をネットで見つけた。
その中の一節。

まりこは、たった二百メートルの間に、人とかかわり、動物とふれあい、自ぜんを楽しんでいる。
わたしは、まりこの「しれば友達になれるのに」と言った言葉が、強く心にひびいた。
まりこが、わたしに言っているような気がした。



『だれもしらない』は、灰谷さんが障碍のある子をおぶって本屋に入った時に
ある主婦から投げかけられた言葉に反駁するために書いた物語だったという。
「あんな子、なにがたのしみで生きているのやろ」という。

しかし子どものようにやわらかい心を持った人にしか灰谷さんのメッセージは届かない。



「TVを観るとよく『いじめがあったのを知らなかった』と言っている先生がいますよね
 だけど何かあったら、朝教壇に立てば、クラスの雰囲気でわかるはずです
 僕に言わせたら、そんなんもわからない先生は教師をやっている資格がないんです」

灰谷さんの言葉が痛烈で痛快だった。

















(2005年12月)

















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