レクイエム




  1.


3月22日の朝に友だちから電話があった。沈んだ声。嫌な予感。

「教会の連絡網なんだけど、牧師先生が今朝5時53分に亡くなったって」

「えっ?」

言葉を失った。先週総合病院からホスピスに転院されたのは、やはりそんなにも悪かったからなんだ。

先生は去年の8月頃体調を崩し、食事が思うようにとれなくなり、見る見る痩せられた。
胃腸を診てもらったがどこも何ともないと言われ、神経科に行ったら「仮面鬱」という病名をつけられ薬を処方された。
しかしその薬では改善せず、ますます痩せていかれた。

心配する家族や教会員の勧めで総合病院に行ったらMRI診断ですぐ病名を告げられた。
すい臓癌。即入院になった。11月のことだった。

手術はできないということで、先生は12月の末には教会に帰って来られ、自宅で療養されていた。

1月28日、先生のご長男の奥さんと息子さんたちの洗礼式があり、司式を先生がされた。感動的な式だった。
そのとき以外は礼拝出席もできなかった先生が、2月の第一、第二日曜には説教をされた。
いま思い返すと、先生はご自分の状態がよくないことを知って、覚悟して説教に臨まれたのかもしれない。

説教の中で先生はこんな意味のことを言われた。

「なんで俺がとか、癌ができるのがどうして別の場所でなかったのかと思うのです。
 活躍しておられる先生方を見るにつけ、俺にも、もっとお役に立てることがあったはずなのに、と」

同じ説教の中で先生は、向こう岸に来てくださるイエスさまについても語られた。
‘向こう岸’にいるように思える自分のところに来てくださるイエスさまについて。


昨夜、先生の前夜式(お通夜)に出席した。

早めに行ったつもりだったのに、会堂からもう人はあふれ、記帳に並ぶ人の長い列ができていた。
その中には多くの中高生の姿があった。

ボーイスカウトには35年関わり、ある保育園の障害児指導チャプレンを32年された先生だった。
うちの末っ子もお世話になった三歳児の幼児教室は、夫人と共に20年された。

子どもの大好きな、ユーモアに溢れる先生だった。

遺族挨拶でご長男が思い出を語っていた。
外に立っていたわたしには、途切れ途切れにしか聞こえなかったが、
ホスピスに移ってから先生が何度も言った言葉があるという。

「悔いはない」

「なぜ俺が」と思ったという先生が「悔いがない」と言われたのか、「悔いがない」と言って生涯を閉じられたのか・・・。

感慨無量だった。





  2.


前夜式と昨日の告別式(葬儀)の最後に夫人が挨拶された。
順不同だしうろ覚えだが、こんな内容だった。


今回のことは私たちにとってとても辛く悲しいことでしたが、神さまはほんとうに良いものを下さいました。
私たち家族はこのことを通して絆を深めることができました。
私たちがお見舞いに行くたびに主人はとても喜び、何度も言っていました、「家族って、有難いねぇ」と。

新婚当時私たちの部屋に飾られていた額に「この一事」と書かれていて
私は毎日それを眺めていたのですが、
主人の生涯を振り返ると、ほんとうにただ「この一事」に一生懸命だった人だと思うのです。
開拓伝道が大変じゃなかったと言うと嘘になりますし、教育費等たいへんなことはたくさんありましたが、
主人は決して「開拓をしなければ」と悲愴な思いでやっていたわけではありません。
私たちの生活には楽しいことや笑いもありましたし、主人は伝道が好きで、自分にできることを自然体でやっていたのです。

ホスピスに入っていいと言われたとき、ああ、神さまは私たちのことを見ていてくださった、これで主人は静かに死ねる、と感謝しました。

あなた、ほんとうによく働きましたね。私たちはあなたに出会えて良かった。あなたを胸に、私たちは強く生きていこうと思います。



* 「開拓伝道」というのは、資金も建物もないところで一から伝道を始めることです。
  わたしたちの教会は、あるクリスチャン家族の二階で行われていた「土曜学校」から始まりました。37年前のことです。
  その土曜学校の担当を任されたのが、30歳の牧師先生だったのです。






  3.

告別式で、先生が若い頃奉仕をしていた教会のK先生が式辞を述べられた。その中で印象深かったことを。

先生がホスピスに移ってからK先生はすぐお見舞いに行ったそうだ。
「僕にできることがあったら」と言うと、先生は10分ほど力を込めてK先生の手を握り、
気にかかっているいくつかのことを言われた(たぶん頼まれた)。
その後で「(頑張って長生きして)奥さんを大事にしなくちゃね」と言うと、先生はこう返したという。
「僕が大事にされているんだよ」

もうひとつの話。

若い頃、先生は書き置きをして田舎に帰ってしまったことがあるという。
K先生は慌てて田舎に訪ねていった。そのとき何を話したかK先生はほとんど記憶にないが、
ひとつのことだけよく覚えているという。
ふたりで外を歩いていると、川が流れている場所に出たそうだ。
その川を見ながら先生は言ったという。
「川のこちら側が貧しい人の住む地域、向こう側がお金持ちの住む地域。
 あちらとこちらの間に橋はかかっていないんですよ」

橋がないのがいけないとか、橋をかけなくちゃならないとか、どうして橋がかかっていないんだろうとかいうのではなく、
ただその事実だけを述べたことが、先生を象徴している気がするとK先生は言われた。

弔辞で、ある人は語った。
目立たないところでたくさんの働きをした先生だった、
誰も引き受け手のない役を引き受け、引き受けたからには一生懸命最後まで責任を果たす先生だった、と。
引き受ける人がいないと先生の名前が挙がる。
先生は「いや、私なんて。もっと適役の方が」と辞退するのだが、
最後にはにやりと笑って「一年だけね」と引き受けてくださったという。

決して表舞台に立とうとせず、しかし任されたことを淡々と誠実にされる先生だった。


「だった」と過去形で語らなくてはならないのが悲しい。





  4.

13年前、次男が行っている幼稚園で知り合った人から、教会でやっている3歳児向けの幼児教室のことを聞き、
週3回、短時間だったら、わたしにべったりだった末っ子も無理なく集団に慣れることができるのではないかと思い、通わせることにした。
だから牧師先生と出会うことができたのは末っ子のおかげということになる。

(わたしはその時は別の教会に通っていた)



幼児教室の責任をもっていたのは保母の資格をもつ牧師夫人で、他に先生がひとり、音楽担当の方がひとりいた。
牧師先生は必要なときだけ補助に入ってくださっていた。
わたしたちは牧師先生を「お父さん先生」、夫人を「お母さん先生」と呼んでいた。
当時教会は、民間アパートのいくつかの部屋を間借りしてやっていた。
だが、狭い庭にはブランコや砂場もあり、3歳の子どもたちなら、何とか遊ぶことができた。
遠足や川遊び、運動会、バザー、クリスマス会等もあり、親子で楽しんだ。
お父さん先生やお母さん先生の優しい視線に包まれ、ゆったりとした穏やかな雰囲気の中で過ごした1年間は、
いま思い返すと、なんと特別な時間だったろう。

お父さん先生の前夜式や告別式には、幼児教室でお世話になった母子もたくさん参列した。
前夜式は2時間ほどかかり、外で待つわたしたちも讃美歌は一緒に歌ったが、
式辞や弔辞はほとんど聞こえなかったから、みな思い思いに思い出話をしていた。
末っ子の翌年お嬢さんを幼児教室に通わせた友だちはこんなことを言っていた。
「そうそう、お父さん先生、クリスマス会で手品とかしてくれたよね。
 牧師先生なのに、全然そんな感じがしなくて、ユーモアがあって、面白い先生だったよね」



やはり前夜式に出席した夫の友人はしみじみと夫に言ったという。

「ほんとに良い先生だったよね」

ほんとうに。

わたしはこれまで何人もの牧師に会ってきた。
とても残念なことだが、その中には、牧師という‘権威’を振りかざし、上からものを言う人が何人もいた。
「愛」を語る牧師が人を平気で裁くのを幾度も目にし耳にしてきた。
しかし先生はそれとは違っていた。
わたしは10年間先生の礼拝説教を聴いてきたが、
教会員を責めたり叱咤激励したりするようなことは一度も言われなかった。
いつも神さまに向かい、自分に向かい、社会や現実を見つめ、内省されていた。
先生をひと言で表すなら、砕かれた人だったと思う。
自然体で、子どもや老人や心身を病む人、つまり社会の弱者と共にいる人だった。
苦しむ人や悲しむ人と一緒に心を痛め、困っている人と共に困り、嘆き、ぼやき、笑う人と一緒に笑っていた。
あまり牧師らしくない、庶民的で人間味あふれる、どこにでもいるような人。

だが、だからこそ、先生の不在が、日に日に重く感じられる。教会に行けば当たり前のようにそこにいてくださった先生。
でもそれは、少しも当たり前などではなかったのだ。

先生、わたしたちはあなたのことが大好きでした。
告別式の弔辞で、ある人が先生の思い出を語っていた。

「先生はまたお洒落で、帽子がよく似合いました。
 用事があって会合を途中で抜けるときなど、帽子を少し上げて笑って 『じゃ、お先に』と言われたものです。
 あの先生の笑顔がもう見られないと思うと、とても寂しいのです」





先生の棺には、教会員から贈られた帽子も入れられた。

「じゃ、お先に」

帽子を上げて笑いながら先生は先に旅立たれた、天へ。

先生、わたしのときが来たら、またお会いしましょう、わたしたちの故郷で・・。





                                                 (2007年3月)


















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